🔄 交流を図るためのふりかえり

最近チーム定例のアジェンダの先頭に “ふりかえり” という項目を用意して、雑多に箇条書きで書いた内容をシェアするだけの取り組みを行なっている。それがめちゃ上手くワークしてる気がするので言語化しておく。 端的に言うと下記がチーム内部で発生しているように見受けられる。 カジュアルなタスク等のシェア内容から生まれる雑談が楽しい ウィンセッションのようなやり取りで自己効力感も増している 各メンバーがお互いに興味関心を持つようになったと感じる 雑談から相談に繋がることも多く、雑相 が自然発生している リモート MTG にも関わらず、自然と全員ミュートオフで参加している ミュートオフやリアクション推奨などのルールは一切設けていない カジュアルに “ふりかえり” というアジェンダを入れたのは、EM として各メンバーを定性的に評価可能なログとして残したい意図があったのだが、チームビルディングに繋がる効果があったのは意外だった。 チームメンバーの大半がリモート勤務していることも関係しているのかもしれない。対面でなくバーチャル上で心から対話を楽しめるようになることは自然な自己開示にも繋がり、仲間意識が強まる効果はありそう。 このようなバーチャルな交流は、同僚のことを、より偽りがなく、人間的で、信頼できる人間だと認識させる作用があることがわかった。個人的な絆を育む上でも、仕事で協力関係を築くうえでもプラスになる資質だ。 他のアジェンダには、“課題共有” や “雑談コーナー” など用意していたのだが、カジュアルな “ふりかえり” を用意するだけで不要になった。 形式的な定例 MTG は大体システマチックになりがちで、主体的な参加を求めるのが難しいイメージがあるが、メンバー間の対話をコーディネートするイメージで開催するとマンネリ化が防げるようになるのやも。

10月 27, 2024 · 1 分 · Me

🤝 連携のための礎を築く

最近働いていて、チームで動けてないという話をよく聞く。チームで動けていないということを深掘りしていくと、連携がうまく取れない旨の課題を伝えられることが多い。連携がうまく取れるとはどういうことなのか。 連携自体は各職能ごとでは日常やっていることのように思う。適宜状況をシェアして協力することは、どこでもやっているだろう。ただ、連携のレベルを職能間で上げることは、同職種内でレベルを上げるより難しい。 職種間でセクショナリズムが問題になることはよく聞く話である。が、最近コレが本質的な原因なのでは?と思うことが 1つある。それは、他の職能について興味を持てていないのでは? 、と言うことである。 例えば、業務をスムーズにするために連携したいというコンテキストが存在する中で、他チームの状況を具体的に知りたい欲求があるとする。 自分たちの業務の状況は明確に把握しているため、他チームから状況を引き出したい。ただ、他チームとしては対話を通じて丁寧にコンテキストを共有してくれないと、一方的に頼まれていると感じるだろう と思う。 コンテキストは、その発端となった事柄や検討の経緯など他者が腹落ちした意思決定を行うのに必要な情報を指す。つまり、頼まれた側にも連携したいと感じてくれるためには、納得してもらうフェーズが必要だと思う。 ココで他の職能に対しての興味を持っているかどうかが響いてくると感じている。 一方的な視点から連携を求めたところで相手の理解は得られず、精々得られたとして、形式的な進捗連絡が行われるのが関の山だろう。 対話を通じて興味があると相手に感じてもらい、双方が歩み寄るスタンスになって、初めて連携というワードを出すのがタイミングとしてちょうど良い気がしている。まず下地として相互理解を深めるイメージ。 表面上の連携を行うことは無駄なプロセスを作ったり、本質的でない刹那の解決策を取ることにも繋がり、特にリーダーほど「早く問題を解決しなきゃ」と善かれと思ってやってしまいがちなことかもと感じる。 相互理解が十分深まった上で、気を遣わずに色々と率直に話せるようになり、初めて本質的な対話が可能になるイメージがある。 そこからは、相互に連携を図るための議論が建設的にできるイメージがある。 そう考えるとチームで仕事をするレベルを上げていく最も初期段階に必要なのは、気を遣わずに話すための土台を構築することなのかもしれない。 ワイワイ話せるだけではなく、気を遣わずに相互に率直に感情や意見が吐き出せる状態を、連携可能な状態だと認識しておきたい。 結局、相互理解のための努力を怠らない事が大事ということなのかも。 P.S. 所謂、心理的安全性で言われることだなーと見返して思ったけども、連携を図る上で最初期に行うべきフェーズとして見落としがちやも。

10月 27, 2024 · 1 分 · Me

👶 育児エンジニアの学び

突然だが刃牙という漫画に郭海皇という人物がいる。 真なる強さを求めて独自に『理合』の鍛錬を重ね、気の遠くなるような月日の中、これまでの自身の強さの象徴にして結晶であった自慢の鋼の肉体が衰えていく絶望に耐えながら、ひたすら研鑽を積み重ねるという人生を歩み、現在に至る。 上記は仕事に言い換えると、仕事にアイデンティティや楽しさを感じるほど積極的に取り組んでいた人が、強い制約の中持続可能な仕事への取り組み方にシフトするようなものだと感じている。 自分はまさに上記の状況に当てはまるエンジニアなのだが、どのように足掻きながらシフトしていったのかを、自らの記憶ために書き記していく。 前提 家庭環境はご家庭によって千差万別なため僕の環境を前提として記してみる。 フルリモートの環境で働いている 育児家事の分担は、大体育児を僕がやって家事は奥さんがやっている 平日は朝と夕方までの家事を行なっている ↑ は仕事の状況によってはできないこともある 休日は家族で過ごしている 基本的には子供が楽しいと思える時間が過ごせるように頑張ってる 故に休日・祝日・連休の方が体力を消耗しがちで疲れる…w 平日は基本 10:00-16:30 の間だけが全力で働ける時間(コアタイム) 夫婦間の合意事項として、子供達が寝るまでは個人行動は無し 子供は 3歳と 2歳と 0歳がいる 第三子は言わずもがな睡眠は安定せず、第二子は暴れ盛りで、第一子は生活リズムが安定してきている感じ 夫婦共々両親はお互いに未だ現役で働いている そのため、親を頼るだとか預けるだとかのムーブは不可能 学び 基本姿勢として、一旦全てを捨てさることが超重要だった 最初の 1年くらいはもがいていたが、途中から全てを投げ捨てた 何かにチャレンジするとか、余暇で遊ぶとか勉強とか不可能だった 独身時代の習慣を持ち込もうとすると、全て家庭トラブルに繋がった 習慣を捨てるのはメチャ難かったが、意識的に捨てた 育児が始まったら、熱中できる趣味も捨てざるを得なくなった - 一人で没頭してやる趣味とかは育児始まったら不可能だった 新たな日常に体を慣らすことに全力で意識を傾けた 体と心が新たな生活に馴染んでくるまでは何も考えなくて良かった 育児やってると勝手に筋肉とか体力とかも時間経過で付いてきた 仕事はほどほどで、家庭に全振りでバランス的にはちょうど良い 育児が始まると家庭が戦争になるので、仕事に全力になるのは無理 仕事を頑張りたいっていう人ほど辛いのは分かるが、耐えた方が良い 仕事で自分が居なくても問題無い状態を、本気で自分事で捉えられる - 結果メチャ自分のレベルが上がった実感が得られた(仕組み化) 自分が頑張らなきゃ、で踏ん張ると色々積む(夫婦の時間も取れない) 夜に頑張れば良いやとか、夜に遅れを取り返せば良いやの考え方は終わる 仕事が溜まってようが、眠くなったら絶対に寝るのを優先した方が良い 仕事の評価とかどうでも良い、夜眠い場合は仕事を捨てて寝る 低年齢の子ほど寝かしつけに成功したら、一緒にそのまま寝る - 深夜に起きまくるので、寝れる時に回復するために寝る心算で 朝眠い状態を迎えてしまうと、その日一日をドブに捨てることになる 独身なら色々融通効かせられるが、育児中は融通が効かせられない 一日のうちに何かしら自分の時間が取れて、趣味・勉強とかできたら偉業 早朝 ~ 始業時間にかけてやりたいことやる習慣をつける - 育児中は早朝 ~ 始業時間以外の時間帯は不確定要素が多すぎて、やりたいことはほとんど出来ないと言っても過言ではない - 夜型の人も、半強制的に朝型になるので朝に活動の比重を傾ける 色々な事柄で楽することに全力を傾ける 育児家事仕事全般で楽することに全力を傾けることが結果良い 色々楽に対応可能になってくると、今現在に意識も傾けやすくなる 結論 良い意味で脱力して手が抜ける状況を色々地道に作り続けていく 育児は長期に渡って行うため、持続可能な思考や仕組みを作る 本当の自分とか意識しない、持続可能じゃない要素は全て捨て去る 家庭環境はそれぞれで全く異なるので他の家庭ではとか考えない あの人は育児中なのに色々出来ててすごいとか考えなくて良い 自然体で生活が出来、気力が湧いて、初めて自分のための行動で全然良い 仕事よりも家庭の方が大切 家庭は一度崩れたら立て直すのが大変すぎる 取り返しが付かなくなるリスクもある(特に育児関連は揉めやすい) 仕事はどうとでもなると思うが、家庭は無理なため全力でコミットする やりたい事も何もかも捨ててくと、セルフコントールできるようになる そうなると何が起きようが、対して精神力を削られずに済むようになる 自分がやろうとしていたことが中断されようが何も感じなくなってくる 育児奮闘中から日常になるまでの学びを書いてみたが、改めて思い返すと総じて無理をするなっていう感じだな。あの人はできているのに、あの人は凄い仕事ができるしコミットできてるのに、とかも当初はめっちゃ思ってたなー。 ...

10月 13, 2024 · 1 分 · Me

💬 即時性の無いコミュニケーションも大切にしたい

自分は同期的コミュニケーションが苦手だ。対話を行う際のリズムが他者と比較して遅いので、その場で満足の行くコミュニケーションが取れたことは今までのことを思い返してみても無い。 同期コミュニケーションは基本的に始めた側のリズムに合わせることが多く、それに合わせる形で相互に気持ちを通わせることが目的であると感じる。 そこにはバンドセッションのような、空気に合わせてみんなで作品を作り上げる感覚がある。その場で満足できる時間を作ることが主目的だと感じる。(もちろん、それはそれでかけがえの無い時間であると感じる) ただ深く相互理解を行いたいと考えたときに、全体のリズムを重視したバンドセッションのようなコミュニケーションは辛いと感じてしまう。相手のことを深く考えて洞察するための時間が無いから。 その点、心境やプロセスを綴りながら書く文章でのやり取りはすごく好きだ。ただそれは軽量なチャットのようではなく、重厚な手紙のような文章である。 言語化し推敲や内省のプロセスを経た内容を見返してみると、相互理解以前に自身への深い理解に繋がることが多々ある。それを元にしたコミュニケーションができると、相互に意識的に心の対話ができる感覚がある。 自身の理解を経たコミュニケーションができた時の満足度は非常に高く、言いたいことが本当に言えた感覚が得られる。それは、自分の発言でさえ、本来深く洞察しなければ理解ができないものなのであろうと感じる。 そうなると他者への理解が容易で無いことも想像が付きやすくなり、他者とのコミュニケーションの際にレッテルを貼らなくて良くなるなと感じる。 つまり、自分が苦手であると感じる人物に対して不快感の前に、理解が足りないなという自覚に至りやすく、自分のような内向的な人間にコミュニケーションの戦闘力を授けてくれるような感覚がある。 そう考えると、自分のような即時性のあるコミュニケーションが苦手と感じる人たちには是非文章を、クオリティなど度外視で書いてみて欲しいと感じる。 (僕がそういった人たちの思考や文章をとても読みたいのもあるが…w) そもそも散文的に文章を書くことは、とても創造的な作業で楽しいと、今この文章を書いていても心から感じる。 最近は全く文章が書けてなかったけども、これからはボチボチ再開していこうかな。 P.S. しずかなインターネットのように散文的に文章が書けて、似たような人たち同士で偶発的に閉じた交流ができるようなアプリとかって無いのかな…w

10月 12, 2024 · 1 分 · Me

📝 リスペクトの欠如が及ぼす自己効力感の喪失

他者の行動や判断、決断に不満を持つことは誰しもがあると思う。僕がそう感じた時に大切にしているのが、結論までのプロセスを聞くということだ。 プロセスを可視化し理解することで相手の思考軸を具体的に捉えることができ、受け入れることが出来ずとも、納得できるようになるからだ。納得ができればモヤモヤが晴れた状態で建設的な議論が行えるようになる。 ただ個人的には納得できるだけではダメで、相手と中長期的に関係性を気づいていく上では、リスペクトに至るまでが非常に大切だと感じる。 リスペクトまで至れない場合は、自らリスペクトできる点を積極的に探すべきだと思う。 対話を積極的に行いコンテキストを深掘りし、自らに無い視点や知り得なかった制約に気づくことで、リスペクトが抱けるようになることは案外結構ある。 何故理解だけでなくリスペクトまでが大事だと考えているかというと、人は感情を無視して論理だけでは持続的な行動ができないと考えているからだ。 例えば、上長の決断で進める施作に反対の立場だが、仕事上強くコミットせざるを得ないとする。その場合リスペクトがあれば、自分の取れうる手段でこの人に貢献せねばという理解からの行動に繋げられると思う。 自分の知らない分野での専門性に対してもリスペクトが持てれば、相互に力が発揮できる形での協力体制について想いを巡らせることもできるだろう。 もしリスペクトが無ければ、自分の方が上手くやれる自信があるのにと、感情が思考を阻み行動が思うように実行できないだろうなと感じる。結果として、本人の能力を最大限に発揮することは難しくなるだろうなと。 少なくとも持続的な行動や協力するための行動は難しくなりそう。 頭ではリスペクトが必要だと理解しているのに感情が伴わない場合や、自身の能力に自信がある人ほど、特にこの状況に陥りやすいと感じる。 リスペクトが無いコミュニケーションというのは、案外色んな部分で本人の意図しない形で表出していて、それは結構外から見られていることがある。 そうなると、Disagree and commit の姿勢で物事に取り組んでいても、時間と共に相互の信頼関係にズレが生じてきてしまい、どちらかが無理をするか回避行動を取ってしまうだろうなという感覚がある。 それらを補うほどのインセンティブがあれば別だが、相当なプレゼンスがある人で無い限り、そういった機会が与えられることは一般的には無いと思う。 ここで一番厄介になるのが、自己効力感の喪失である。自己効力感は幸せに直結する要素の 1つであると考えているので、ここの主導権は失いたくない。 リスペクトの欠如がなぜ自己効力感の喪失に繋がると感じるかというと、周囲から理解の姿勢を得ることが難しくなり、孤立に繋がる点が挙げられる。 対話の気力すら失ってしまうことに繋がり、悪循環が生まれるイメージ。 一度孤立してしまうと、周囲と繋がるためのコストが不必要に増大してしまい、信頼関係回復のために疲弊してしまいそうだなと感じる。もしくは時期尚早な回避行動を取ってしまいチャンスを逸してしまう懸念もありそうだなと。 ただし、自分の軸と照らし合わせた時に、どう頑張ってもリスペクトが全く持てない場合もあると思う。その場合は潔くその場を離れる判断をした方が良いと感じる。それは自分のためであると同時に相手のためにもなるだろう。 しかしそれは最終手段である。自身の今後を思えばこそ、異質な人とも支え合えられるような関係性が築けるようなスキルを身につけることは重要である。 それを具体に言語化すると、リスペクトなのであろうと帰結する自分がいる。 リスペクトが意識的に持てるスキルを身につけることは、多様性を認めた上で、自身の欠点を客観的に見られるスキルの言い換えなのかもしれない。 ちなみに僕は音楽が大好きなのだが、たまに全く普段聞かないようなジャンルを意識的に聴き始めることがある。最初は嫌いだと感じていたものも挑戦したりする。すると不思議なことに「あ、今だと聴けるな」となることがある。 そこからジャンルを深掘りすることで、確立された背景なども知ることができ、普通に音楽を聴く以上に感慨深い体験を得ることができたりする。リスペクトとは興味の幅を押し広げるスキルとも言えるのかもしれない。 論理的な思考が先行している人でも、リスペクトがスキルだと言われれば、案外容易に様々な人たちに対してリスペクトが抱けるようになりそうだなと感じる。 いわゆる HRT と呼ばれるスキルセットとも呼べるのかもしれない。 そう考えると、リスペクトはシンプルに自身の可能性や自己効力感を高めるために身につけた方が幸せになりそうだなと感じるし、引いては周囲に対して幸福を与える人になれる可能性を秘めた素敵なものだな と感じてきた…w

10月 12, 2024 · 1 分 · Me